昨晩、30年前に参加したヒマラヤ登山の同窓会に、当時のメンバーや友人たちが集まり、楽しいひと時を過ごすことができましたが、会の始まりは、黙祷から始まりました。
その登山では、1人の仲間を転落で失っていました。
会も盛り上がった頃、ひとりの友人が、わたしに一枚のハガキを見せてくれました。
それは、死んだ先輩が、ヒマラヤのキャンプ地から、その方に宛てたハガキでした。
「Mさん、今回もまた飛行機が飛ばずに、隊荷を陸路で運ばなくてはならなくなりましたが、
今回は、前回Mさんが果たしてくれた役割を小野村が果たしています。
小野村には、今回は、山頂に立って欲しいと思っています。」
この3年前の7月末、わたくしと先輩とMさんを含む5人のメンバーは、マカルー峰(写真)登山のため、ネパール・カトマンズでキャラバン出発の準備をしていました。
5300メートルのベース・キャンプまでのキャラバンは、出発地まで飛行機で飛び、そこから60人のポーターを雇い、1800kgの隊荷を2週間かけてベースキャンプまで運ぶものでした。
ところが、航空会社の事情で、メンバーは乗れるものの隊荷が載せられないという事態が発生し、1800kgの隊荷は、陸路でキャラバン出発地まで運ばなければならないこととなりました。それは、モンスーンを迎えヒルも多生する湿地となった亜熱帯のジャングルの中を、60人のポーターを管理しながら、1週間を歩き続ける厳しいものでありました。
初めてのヒマラヤで、経験の無いポーターの管理をひとりで担当することと、その厳しい気候の中、体力を消耗させながらの隊荷の運搬に自信が持てないわたくしが、隊荷への付き添い役をぐずっていたところ、その役を買って出てくれたのがMさんでした。Mさんは、ドクターとして参加された方でしたので、隊長のYさんは、「メンバーである小野村がやるべき役割を、ドクターにやらせるとは何たることか!!」と、大激怒。
そうした状況を見ていたのが、副隊長であった先輩でした。
未熟さゆえのこの失敗を胸に過ごした3年間でした。
そして、3年後の2度目のヒマラヤにおいて、たまたまと言うべきか、天の配剤と言うべきか、3年前と同じく飛行機が飛ばない事態と、隊荷の陸路での運搬の問題が発生し、その仕事を担当することができました。
先輩との2度目のヒマラヤを終え帰国したならば、一杯やりながら聞いてみたかったひとつの問い。
「“3年前の借り”は、返せたでしょうか?」
しかし、先輩は墜死し、その答えを聞くことができませんでした。
昨夜、30年を経て天国の先輩からお返事を戴いたように感じ、感謝でありました。
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